最近ダ・ヴィンチ・コードが自分の中で流行ってるんですけど、はっきり言ってダ・ヴィンチ・コードは映画版>原作小説です。本当になんであんなつまらない小説がベストセラーになったのか、いまだにわかりません。
私は映画を見た後小説を呼んだのですが、小説より映画版のほうが数段マシ、いや、ロン・ハワードをはじめとする映画製作チームがつまらない原作を何とかして見られるものにしたというような印象を持ちました。
■原作小説をなぜつまらないと感じたか
まず第一に、人間が描かれていないからです。
この小説はおそらく著者ダン・ブラウンが自分の思い付きをいろんな人に知ってもらいたくて書いたものだと思うのですが、その想いがあまりに強すぎて、登場人物がただ著者の思想の代弁者みたいになってしまっているんです。これはダン・ブラウンと同じような考えの人や興味ある人には楽しいでしょうが、私のように人から勧められて読んだだけの人間には苦痛以外の何者でもありません。
小説はもともと何を書いてもいいジャンルで自由だし、人間を描かなければならないという掟などありません。また、アーサー・C・クラークの「宇宙のランデヴー」のように、ろくに人間を描いていないのに面白い小説もあるわけですから、人間を描かなければつまらないというわけではないんです。
でもダン・ブラウンの描く人物は彼のスポークスマンとしての機能しか与えられていなくて、とっても味気なかったのです。
第二に、ダン・ブラウンは嘘つきだからです。
この人は小説の冒頭で「この小説に書かれているものは事実に基づいている」という内容の序文を書いておきながら、嘘とごまかしばっかり書いています。ただ内容がつまらないだけだったらまだしも、序文で事実だと宣言しておきながら嘘ばっかり書くダン・ブラウンという人の神経がわかりません。アイロニーのつもりで序文を書いたのなら、かなり面白いと思うのですが、そうではなさそうなところがまたむかつく。
たとえば「最後の晩餐」の記述で、この絵画はフレスコ画で書かれているとありますが、実際はテンペラ画です。またシオン修道会というのは11世紀創設ではなく、1956年にピエール・プランタールという怪しげなフランス人男性が設立したらしいのです。
インターネットでちょっと調べただけでわかるような嘘を書くなよと、非常に残念な気持ちになりました。どうせ嘘をつくなら、明らかにバレバレだけどバカ過ぎて愛嬌がある嘘とか、絶対にばれない嘘とか、そういう類にしてほしいんです。
■原作に比べると映画は数段マシです
世間では映画版はディティールを端折りすぎているなどと不評なようですが、それは間違っています。映画版は小説版にないディティールを付け加えたというべきです。
小説版に決定的に足りなかった人物の掘り下げを映画版ではそれなりに補うことに成功しています。とくに色素欠乏症のオプス・デイ修道僧シラスを演じたポール・ベタニーの役作りは群を抜いて素晴らしかったと思います。彼の演じるシラスが、自らの罪を罰するために、足に棘のついたベルトをつけて背に鞭を打つ苦行を行うシーンがあるのですが、本当に鞭で打たれた痛みが伝わってきそうで、見ているのがつらくなるほどの迫力を出していました。そして後でパンフレットを見てみると、そのシーンでは鞭で打たれた痛みを表現するために、わざと間隔をあけて鞭を振ったのだそうです。こういう細かなこだわりが、真っ白な恐ろしい暗殺者のイメージを際立たせ、同時に人間としての奥行きを持たせることにも成功させているのだと思います。もし私がアカデミー賞の選考員だとしたら、彼を助演男優賞に推薦します。
■要するに言いたかったのはポール・ベタニーの素晴らしさです
要は、ポール・ベタニーという俳優が「ダ・ヴィンチ・コード」に出演していて、抜群にいい演技をしていたよということを言いたかったんです。
ありがとう、本当にありがとう、ポール。これからもがんばってね。