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この記事を書きながら漠然と思ったことを書きます。
■私は作品としてブログを扱っている人の書くものが好きです
なぜならば、言葉一つ一つの価値が高く、鑑賞に堪えうる場合が多いからです。言葉には価値があって、粗製濫造されたり、流通しすぎて供給過剰になってしまうと、価値が下落します。また、無理やり一つの意味に押し込めて文脈の中でガチガチに固めて身動きをとれなくしてしまっても、言葉はその光彩を著しく失うので、やはり価値が下がります。
センスの良し悪しはありますが、私は作品として自分のブログの記事を扱っている人は、言葉の価値についてよく知っている人が多いように感じます。理屈で知っていなくても勘で分かっているというか、そういうものです。
それで言葉の価値を知っている人は、それを扱う時に自然と慎重さをもって扱うんです。ここでいう慎重さとは、世俗的な配慮のことではなくて、自身の言葉選びのセンスに対する慎重さです。こういうことを言いたいんだけれども、それを表現するためにはどんな言葉を使ったらいいだろうか、これは無粋な表現だからやめとこう、これは陳腐に過ぎるとか、無理のない感じで自然と吟味出来る人が言葉の価値を知っている人だと思います。
あとセンスを持ってる人は、文章が長くなっても、言葉の価値が下落しづらいんです。普通、長文になればなるほど言葉の価値は下落します。よく勢いのある長文が、その勢いの強さゆえに評価されることがありますが、それは間違いです。よく量販店に行くと天井までうずたかく詰まれた商品の山を見て、うわあすごいなあと思うことがありますが、それはただ単にたくさん物があるから驚いているだけであって、物そのものへの感心ではないんです。それに比べて、センスのあるひとは、物量のすごさを逆に感じさせない文章を書くんです。どんなにたくさん文章を書いても、量的なすごさを目立たせずに、言葉一つ一つが放つ光彩で魅せるということが出来る人こそセンスのあるひとだと思います。好みの問題も多分に割り込んできますが、そういう傾向はあるような気がします。
今もずっと、自分の文章力にコンプレックスがあります。
先日、初めてちん様の
『ネバー・エンディング・ブログ・ストーリー』を呼んだとき、
簡潔でリズム感(?)のある文章に
心地よさを感じました。
日常的な語句の組み合わせだからこそ馴染みやすく、
また、空気感と物語の展開を
素直に楽しむことができました。
読者が感じたそれこそが、
ちん様の文章の魅力だと思います。
あの…私は私でまた別の目指すところがあるのです。
目の前に場面や情景が自然と浮かぶような
文章を書いてみたいんです。
今以上にもっともっと。
誰も見たことのないような世界観や情景を
文章でもって表現したいです。
ちん様が◎と思う文章を書く作家はいらっしゃいますか?
きっと私とはまったく違った作家さんを
思い描かれるのでしょう。
私が駄目だと思う文章は、テレビの「何でも評論家」みたいにだらだら言葉を吐き出して省みる気のなさそうな文章です。とりあえずしゃべっとけば一家言あるように見えない?みたいな芯の無い文章です。
私の好きな作家はポール・オースターとダグラス・アダムスと宮沢賢治です。あと小説家ではありませんが、エドワード・ゴーリーが好きですし、ゴルゴ13シリーズの さいとうたかを も偉大な表現者だと思います。
また、芥川龍之介は再評価されるべきだと思っています。彼はなまじ教科書に載ってしまったために文豪みたいな評価を受けていますが、それは間違いです。彼は超ど級の変態です。今だったらタモリ倶楽部に出演していてもおかしくないし、変態具合から言っても遜色の無い人物だと思っています。
(この呼び方にします)
拝読して、「文章が長くなっても、言葉の価値が下落しづらい」書き手でありたいと強く思いました。私は長文書きなもので。
言葉を選ぶことは難しいですね。できるだけ適切な言葉を選びたいですが・・・
よく吟味し「最後に選んだ言葉」が、最初の自分の気持ちから離れてしまっていることがあります。
言葉を選ぶという思考作業を通して、いつのまにか自分の想いそのものが微妙に修正されてしまった、というカンジです。負の感情を書くときは、あまりに強烈な言葉は人前に出したくないという自制も働きますし。
たまには「最初に選んだ言葉」でガーッと書きあげることも必要なのかな、などと思っています。
私も自分の文章にはコンプレックスがありまして
長い文章が書きたくないのです。
ちんこ寺さんがおっしゃるように
自分の文章の価値が下がることに
耐えられないのかもしれません。
書きたいことって多くても少なくても
面白みが伝わりにくくなりますよね。
最後に好みの問題だとありますが、
これも難しいですよね。
文章として読ませるか
言葉として読ませるか
ってことですかね?
書いていてよく分からなくなりましたが
私は言葉の輝きというのは好きですね。
文章として読ませるかと言葉として読ませるかは必ずしも別々のものではなくて、共存しえます。両方出来る人はたくさんいると思います。
私がこの記事を書いたきっかけは「×小笠原鳥類」というブログなのですが、ここでは意図的に文脈を崩し去って言葉のそのものの持つ力を十二分に発揮させることに成功しています。こういうものを無料で読めるのは素晴らしいことです。
http://tomo-dati.jugem.jp/