2006年06月27日

ダ・ヴィンチ・コードは映画版>原作小説です

■映画版>原作小説ですよほんとに

 最近ダ・ヴィンチ・コードが自分の中で流行ってるんですけど、はっきり言ってダ・ヴィンチ・コードは映画版>原作小説です。本当になんであんなつまらない小説がベストセラーになったのか、いまだにわかりません。

 私は映画を見た後小説を呼んだのですが、小説より映画版のほうが数段マシ、いや、ロン・ハワードをはじめとする映画製作チームがつまらない原作を何とかして見られるものにしたというような印象を持ちました。



■原作小説をなぜつまらないと感じたか

 まず第一に、人間が描かれていないからです。
 この小説はおそらく著者ダン・ブラウンが自分の思い付きをいろんな人に知ってもらいたくて書いたものだと思うのですが、その想いがあまりに強すぎて、登場人物がただ著者の思想の代弁者みたいになってしまっているんです。これはダン・ブラウンと同じような考えの人や興味ある人には楽しいでしょうが、私のように人から勧められて読んだだけの人間には苦痛以外の何者でもありません。
 小説はもともと何を書いてもいいジャンルで自由だし、人間を描かなければならないという掟などありません。また、アーサー・C・クラークの「宇宙のランデヴー」のように、ろくに人間を描いていないのに面白い小説もあるわけですから、人間を描かなければつまらないというわけではないんです。
 でもダン・ブラウンの描く人物は彼のスポークスマンとしての機能しか与えられていなくて、とっても味気なかったのです。

 第二に、ダン・ブラウンは嘘つきだからです。
 この人は小説の冒頭で「この小説に書かれているものは事実に基づいている」という内容の序文を書いておきながら、嘘とごまかしばっかり書いています。ただ内容がつまらないだけだったらまだしも、序文で事実だと宣言しておきながら嘘ばっかり書くダン・ブラウンという人の神経がわかりません。アイロニーのつもりで序文を書いたのなら、かなり面白いと思うのですが、そうではなさそうなところがまたむかつく。
 たとえば「最後の晩餐」の記述で、この絵画はフレスコ画で書かれているとありますが、実際はテンペラ画です。またシオン修道会というのは11世紀創設ではなく、1956年にピエール・プランタールという怪しげなフランス人男性が設立したらしいのです。
 インターネットでちょっと調べただけでわかるような嘘を書くなよと、非常に残念な気持ちになりました。どうせ嘘をつくなら、明らかにバレバレだけどバカ過ぎて愛嬌がある嘘とか、絶対にばれない嘘とか、そういう類にしてほしいんです。



■原作に比べると映画は数段マシです

 世間では映画版はディティールを端折りすぎているなどと不評なようですが、それは間違っています。映画版は小説版にないディティールを付け加えたというべきです。

 小説版に決定的に足りなかった人物の掘り下げを映画版ではそれなりに補うことに成功しています。とくに色素欠乏症のオプス・デイ修道僧シラスを演じたポール・ベタニーの役作りは群を抜いて素晴らしかったと思います。彼の演じるシラスが、自らの罪を罰するために、足に棘のついたベルトをつけて背に鞭を打つ苦行を行うシーンがあるのですが、本当に鞭で打たれた痛みが伝わってきそうで、見ているのがつらくなるほどの迫力を出していました。そして後でパンフレットを見てみると、そのシーンでは鞭で打たれた痛みを表現するために、わざと間隔をあけて鞭を振ったのだそうです。こういう細かなこだわりが、真っ白な恐ろしい暗殺者のイメージを際立たせ、同時に人間としての奥行きを持たせることにも成功させているのだと思います。もし私がアカデミー賞の選考員だとしたら、彼を助演男優賞に推薦します。



■要するに言いたかったのはポール・ベタニーの素晴らしさです

 要は、ポール・ベタニーという俳優が「ダ・ヴィンチ・コード」に出演していて、抜群にいい演技をしていたよということを言いたかったんです。

 ありがとう、本当にありがとう、ポール。これからもがんばってね。
posted by ちんこ寺 at 00:33 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞記 b_entry.gif

2006年05月31日

言葉の価値を知り尽くした人の文章を無料で読める歓びを皆さんと分かち合いたいです

■素晴らしいブログを独り占めしているのは嫌なので皆に紹介したいです

×小笠原鳥類

 ここでは言葉がただの道具としてではなく、その用途と無関係に、純粋に鑑賞されるものとして展示されています。言葉の価値がすごく高い状態で展示されているんです。こういうものを無料で見られるというのはものすごく贅沢なことだと思ったので、この人の著書を買いました。



 この詩集はさらにすごいです。無料版と有料版の違いというべきでしょうか。私はいつもこの詩集を、画集を眺めるようにパラパラめくって読むというか眺めるのが好きなのですが、この詩集を読むと、普段は記号としての価値しか持たされていない言葉がその束縛から解放されて、言葉の本来の色彩というか味わいというものが、著者の絶妙なセンスでブレンドされて、まるでミラーボールが超高速回転しているような輝きを放っています。

 特に頭に残ったフレーズは「金属のテリーヌ」と「殺さない電気殺害動物・孔雀(クジャク)」であり、頭にこびりついて離れません。また、作品単位でのお気に入りは「腐敗水族館」で、一番多く読みました。

 上記の「×小笠原鳥類」というブログは、言葉の価値について知り尽くしている人が書いているブログです。言葉の価値について通り一遍の理解で済ますのでなくて、きちんと体感したい人は是非見に行って欲しいと思います。
posted by ちんこ寺 at 21:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 鑑賞記 b_entry.gif

2006年05月11日

「無門関」を読んだ

■無門関を読みました

 tak shonai's "Today's Crack" (今日の一撃)‐1人殺すも 10人殺すもを読んだのですが、その記事の中で無門関という書物の一節が紹介されていて、非常に興味を持ちました。それで急いで本屋に行って無門関を探して買って読みました。

無門関(Amazonのリンクです)

 読み進むうちにどんどん引き込まれました。takさん、ありがとうございました。



■無門関は多分DSトレーニングよりもずっとトレーニングになります

 無門関がどういう本かというと、禅宗のお坊さんのための悟りトレーニングです。一言で言うと難解な本です。48の公案(悟りを得るための問題集のようなもの)と序文あとがきのようなものがくっついて無門関という本を形作っているのですが、一度読み通してみて、ほとんどの公案は理解できませんでした。より正確に言うと、本当に腹に落として読み込めたものがほとんどなかった、あるいは読んで「ああこういうことか」と自然に理解できたものがほとんどなかったという具合でした。
 それでも面白くてのめりこみました。

 公案の中には、「多分これはこういうことを言っているんだろうな」と推測できるようなものは結構ありました。でもそういう読み方は多分間違っていて、本当に腹に落として理解する、自分の血肉として自由自在に使いこなせるようになる、そういう風になってはじめて公案一つをきちんと読んだことになるんだろうなと思うのです。

 そうすると、私は無門関という本を全部読んでいながら、まだ数語も読んでいない状態なんですね。そういうところが非常に面白くて、今度は通読するのではなくて、公案一つ一つに向き合って読んでみようと思います。



■無門関から何となく銀河ヒッチハイクガイドを連想した

 連想したんです。読みながら、この公案集にある問答はどこかで見たことがあるなと思っていろいろ記憶を手繰ってみたところ、銀河ヒッチハイクガイドに思い当たりました。そして特に「42問答」を思い出しました。
42問答(詳しくはWikipedia参照
「生命、宇宙、そして万物についての究極の答えはなにか?」
「42である」
 これは、太古の昔に全時代、全世界で2番目に優秀なコンピュータに上記の問を入力したところ、750万年かけた分析の結果、答え「42」を導き出してしまったというエピソードなのですが、何となく禅の公案に匂いが似ているなあと思ったのです。

 コンピュータがなぜ42という答えを出したかというと、質問が的確でなかったからだとコンピュータ自身答えていますが、どういう思考過程で42にたどり着いたのかは誰にも分かりません。750万年かけて分析し、繰り返し繰り返し検算をしたというのですから、あながち適当にひり出した分析結果ではないはずなのですが、それがどういう過程を経てそうなってしまったのかはコンピュータ自身にしか分からないのです。

 何となくこういう「言外の言葉」「慮外の思考」のようなものが、銀河ヒッチハイクガイドにはいくつも出てくるんです。もしかしたら著者のダグラス・アダムズはどこかで禅宗の公案に出会っていたか?それとも禅の公案に似たようなものを自力で作り上げたのか?今となっては全く分かりませんが、今猛烈に気になっています。



■とりあえずまた読み返します

 今日は無門関という本を読んで、非常に面白かったですということを書きたかったんです。一通り読んだだけでろくに内容を飲み込めたわけではないので、内容の深い部分にまで踏み込んで書けなかったのですが、それでも書きたかったのです。読み返して新たな気づきがあったらまた書きますよ?無門関について書いたのに、この程度しか書けない現在の自分自身の理解の程度がとっても悔しいですから。
posted by ちんこ寺 at 00:21 | Comment(2) | TrackBack(0) | 鑑賞記 b_entry.gif

2006年04月10日

銀河ヒッチハイクガイドのイギリス版とアメリカ版の違いを思いっきり書き殴りたいです

注意…この記事は「銀河ヒッチハイクガイド」原作小説と英国テレビドラマ版とハリウッド映画版を総覧した人以外にはわかりづらい記事です。また、作品の内容について深く触れますので、それを知りたくない人は読まないでください。

参考:wikipedia-銀河ヒッチハイクガイド



■私も銀河ヒッチハイクガイドを見ましたよ?

 ネコプロトコル‐銀河ヒッチハイク・ガイドを見たにて、銀河ヒッチハイクガイドの感想が書かれていました。素晴らしいことです。しかし一つ異論があります。

『映像集団Shynola作の「銀河ヒッチハイク・ガイド」のビジュアル』

 ↑これが見所の一つとして上げられていましたが、同じ銀河ヒッチハイクガイドのビジュアルならば、テレビ版の「銀河ヒッチハイク・ガイド」のビジュアルの方がよっぽど優れています。私は映画版のヒッチハイクガイドを見て残念だったことの一つは「銀河ヒッチハイクガイド」のビジュアルだったわけですから、オーシマさんにテレビ版銀河ヒッチハイクガイドを貸してあげたいくらいの気持ちでいます。もちろん実際には貸しませんが、あなたの知らないところに間違いなく良いものがありますから、是非騙されたと思って見てくださいという気持ちでいっぱいなのです。Amazonで売ってるので、是非買ってみてください。



↑左から順番に「原作」「イギリスのテレビ版」「アメリカの映画版」です。



■本題:イギリス版やらアメリカ版やらの話

 イギリスのTVドラマ版とアメリカの映画版を見比べて思ったことを書きます。まず結論から書きます。

結論:イギリス版の感覚には諦めの美学が深く根ざしているけどアメリカ版にはそれがないんだなあ。寂しいなあ。

 なんで結論のように思ったかというと、イギリス版とアメリカ版の銀河ヒッチハイクガイドの結末が、あまりにも異なっていたからです。簡単に言うと以下のようです。

1.アメリカ版にはゴルガフリンチャム人が出てこない
2.イギリス版では完全復活しない地球がアメリカ版では簡単に完全復活する



■なぜゴルガフリンチャム人が出てこないと「結論」みたいな話になるのか?

 ゴルガフリンチャム人の説明をしましょう。原作小説によると、ゴルガフリンチャム人は現生人類の祖先で、母星であるゴルガフリンチャム星から間抜けな形で追放された「役立たずども」という設定になっています。現生人類はゴルガフリンチャム人の中の「役立たずども」の末裔ということになっているのです。
 テレビ版では主人公のアーサー・デントとフォード・プリーフェクトは不可能性ドライブのせいで遠い過去に飛ばされ、ゴルガフリンチャム人の宇宙船の中に放り込まれます。そして宇宙船が墜落する先が太古の地球なのです。そこでアーサーたちは嘆きます。
「こんな美しい星が役立たずどもに占領され、200万年後にはヴォゴン人の手によって壊されるなんて」
 遠い過去に飛ばされたアーサーたちは地球の破壊を防ぐために何の手立を講ずることもできません。あまりに昔に飛ばされたため、バックトゥザフューチャーのような小細工が全く効かないのです。そしてはじめに嘆き、次には諦め交じりの穏やかな境地に至ったところで、ルイ・アームストロングの「What a wanderful world」の曲とともにテレビ版の幕が下ります。何の救いもありません。

 翻ってアメリカの映画版をみると、だいぶ様子が違ってきます。映画版ではアーサーたちは過去に飛ばされず、従ってゴルガフリンチャム人は登場せず、ヴォゴン人に破壊されたはずの地球は「バックアップを取っていたから」という理由で破壊直前の状態に復旧されます。もちろん地球上の人類を含めた生物もすべて元通りになります。

 もちろん地球復旧とともにあらゆる生命が復活するシーンは美しかったですし、地球復旧の理由が「バックアップを取っていたから」というのは現代風にアレンジされた非常に秀逸なアイデアだと思いました。しかしこのシナリオだとすべてが丸く収まってめでたしめでたしになってしまい、原作にある「諦めを前提にして自分の運命を笑い飛ばす微妙な陰影」が見事に消し飛んでしまっています。配給会社の意向とぶつかり、時には妥協しながら作った製作者サイドには同情しますが、映画版にはもうちょっと原作の持つ微妙な諦めの陰影を再現して欲しかったなあと思ったのです。

 あと細かいところでも最初のフォード・プリーフェクト登場のシーンでバイパス工事の監督者の役人との掛け合いが面白いのにそこが無残にカットされているなどいろいろ不満はありますが、総じて言えばやはりアメリカ版にはイギリス版にある「諦めの美学」が全く感じられないのが残念だなあと思うのです。



■最後に

 オーシマさんのいう「原作を知らないとつまらないと評価される映画だと思う」という意見には諸手を上げて賛成です。本当にそう思います。だから皆さん是非原作を読んでください。本当に面白いですから。
posted by ちんこ寺 at 22:52 | Comment(0) | TrackBack(1) | 鑑賞記 b_entry.gif

2005年11月24日

人間の偉大さは、恐怖に耐える誇り高き姿にある

■怒りがこみ上げてきた

 さっきテレビでハリー・ポッターの1作目を久しぶりに見たんです。そしたら心の奥のほうから怒りがこみ上げてきて仕方が無くなってきました。はじめて見たときに何故怒りを感じなかったか自分でも不思議でなりません。



■何に怒りがこみ上げたか

 魔法使いのチェスという場面で、ロン・ウィーズリーという登場人物のとった行動に対する作中での評価の低さです。
 J・K・ローリングよ、あなたは「人間の偉大さは、恐怖に耐える誇り高き姿にある」という言葉を知らないのですか?とレンガを片手に持ちながら問いただしたい気持ちになりました。もちろんレンガは建築のためではなく、相手の即頭部に叩きつけたいと思ったために片手に持つのです。



■具体的に言うとこうだ

 作中、ロン・ウィーズリーは、魔法使いのチェスという地獄のゲームでチェスを指さねばならなくなりました。魔法使いのチェスというのは、剣や棍棒を持った駒が実際に殴りあう巨大なチェス盤の上で自分たちも駒となって戦うチェスのことで、自分が相手の駒に取られた場合は容赦なくやられるという恐ろしいゲームです。

 ロン・ウィーズリーは見事な采配で相手をチェックメイト寸前に追い込みますが、そこで問題が発生します。チェックメイトに持ち込むには、ロン・ウィーズリー自らが指揮するホースを捨て駒にしなければなりません。
 そこで彼は、やめろやめろとわめく仲間の言葉を無視して相手の駒に自らのホースを取らせてチェックメイトします。彼自身はホースを串刺しにされて吹き飛ばされ、生死の境をさまようわけです。

 その後、ロン・ウィーズリーは無事生還し、終業式の際に校長先生にほめられるのですが、そのほめ言葉が、「近年まれに見るチェスの名勝負をしたから50点あげる」というものでした。友達のハリーは、ただ運が良かっただけ(なぜかポケットに賢者の石が入っていた。悪者に触ったらそいつが石化した)だけなのに、「勇気と意志の強さ」を認められて60点をもらいました。

 なんということでしょう。これに怒りを感じずにいられましょうか。



■怒りポイント其の一 ほめるポイントが違うんじゃないか?

 ロン・ウィーズリーが校長先生からほめられたのは、「近年まれに見るチェスの名勝負をしたから」でした。
 しかしほめるポイントが違うんじゃないでしょうか。

 彼がほめられるべきは、「次の一手で確実に自分が戦死する」という恐怖心に打ち勝って、冷静に采配を振るって勝負に勝ち、大切な友達を助けたことでしょう。
 並の人間ならば、自分の目の前に恐怖が迫ったとき、大局を見ることができずに自分が助かりたい一身で間違った判断を下してしまうはずです。
 その点彼は、子供ながら優れた将器の持ち主です。彼は魔法学校などに行かずに、ロイヤルネイビーに入るべきでした。そうすれば、ネルソン提督のような、トラファルガー広場に銅像が立てられるような名将として歴史に名を残したことでしょう。

 校長先生の、教育者としての資質を疑います。



■怒りポイント其の二 配点が不公平じゃないか?

 先ほども述べたとおり、ロン・ウィーズリーは終業式の際に校長先生からほめられ、50点もらうわけですが、友達のハリー・ポッターはたいした努力もせずに悪者の自滅の現場に居合わせただけで60点もらいました。

 この配点はどういう意図で行われたのか、怒りがこみ上げてきます。

 結果だけを見れば、賢者の石窃盗事件の最終局面に居合わせ、石窃盗を防いだハリー・ポッターが評価されてしかるべきですが、ここは教育現場です。結果だけでなく、子供たちの努力のプロセスを見てあげることも重要なのです。

 その点、ロン・ウィーズリーは偉大でした。彼は「魔法使いのチェス」で自分の戦死と引き換えに勝利を得るという非常手段でもって、自分の行動の結果に責任を持ち、それを果たしました。ただ恐れおののき、わけも分からずに成り行きに流され、生まれ持った魔力に頼りきったハリー・ポッターとは大違いなのです。

 だから、ハリー・ポッターが60点もらったのならば、ロン・ウィーズリーは600点くらいもらってもおかしくないのです。自分の行動にきちんと責任を取る姿勢は、生まれ持った魔力と運のよさに頼る姿勢よりも、十倍の評価を得てしかるべきなのです。
 それなのに50点しかもらえないとはどういうことでしょう。
 校長先生は、努力や自分の行動に責任を持とうとする姿勢よりも、生まれ持った才能と運のよさを評価するようです。

 校長先生の、教育者としての資質を疑います。



■以上が怒りの解説です
 繰り返しますが、J・K・ローリングよ、あなたは「人間の偉大さは、恐怖に耐える誇り高き姿にある」という言葉を知らないのですか?と言ってやりたい気持ちでいっぱいです。もちろんレンガです。
posted by ちんこ寺 at 01:27 | Comment(4) | TrackBack(0) | 鑑賞記 b_entry.gif

2005年06月26日

チェブちゃんのシネマ

「か行とが行の不備」

本日ビデオでロシア製マペットシネマを見ました。無念にも使用不能の文字入りのため、題名を出すのは無理です。ただ主演のマペットはダンボのような耳を持つ茶色の正体不明の生命体(たぶん哺乳類)で、「チェブちゃん」などと呼ばれています。

「チェブちゃんのシネマ」は70年代、児童用に上映されたもので、チェブちゃんとその友達たちのやりとりを通じて人の優しさを伝えるマペットシネマです。当時のソ連で大ヒットし、今でも有名なようです。ディズニーランドにいる超有名ネズミのような存在なのでしょう。登場人物の愛らしいフォルム、ほのぼのとしつつ何となくさびしい印象を与える歌や映像は秀逸ですし、何よりもあふれ出る優しさに胸を打たれます。

また、児童用のマペットシネマであるのに、大人も楽しめる遊びの要素も多々あります。例えば、動物園の描写は大人向けの不条理な描写です。チェブちゃんの親友であるワニは、動物園に勤めており、その任務は「ワニの檻に入ってワニとして閲覧される」という内容です。ワニは定時になると、無造作につるしておいた私服を身にまとい、退出の段取りを踏んで退出します。そして一般市民として街に戻ります。

恐ろしいほどに不条理です。動物園で見られている動物は衣類を身にまとい、街で平然と歩いているのです。「チェブちゃんのシネマ」の住人にとって、動物園の存在する意味とは、動物の檻に入る意味とはなんなのだろうと思いわずらいました。動物園とは、人と共にいない普段見られない動物を見せ、学ばせる施設であるはずです。そういう大人のルールを無視して話はどんどん進みます。

「チェブちゃんのシネマ」の魅力は、お話にあふれる優しさや寂しさのみならず、その不条理さと登場人物の愛らしさの間にある、不自然なバランスにあるやも知れません。大人はその矛盾に新鮮味を覚え、児童は愛らしいマペットたちを純粋に愛するのと、たまに現れる不条理のパワーをなんとなしに察知して楽しむ部分もあるのだろうなあと思いました。

cheb.jpg
↑「チェブちゃんのシネマ」写真です。


「本日の不備で思う」
本日使用不能な文字のせいで、断定の助詞の大事な部分の使用不能に陥り、文字や文章の種類を減らさざるを得ない状態になった。使用不能な断定の助詞のみに悩む状態だった。他(た)の文字は使用不能でもさしたる問題はない。代替の文字を使用すればよい。
posted by ちんこ寺 at 23:46 | Comment(0) | TrackBack(1) | 鑑賞記 b_entry.gif

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